日本史の中で人気のある時代が戦国と幕末。
その幕末の中でも特に人気が高いのが……「新選組」です。
日本人は特に判官贔屓だからね
ほーがんびいき?
- 大差で負けそうなチームを見ているとつい応援したくなる
- 弱小校が強豪校を倒しそうになると盛り上がる
日本人であればなんとなく理解できるのではないでしょうか。
この感情によって人気の高い歴史上の人物たちは敗者側であることが多いのです。
言葉の語源となっている「源義経」はもちろん、「豊臣秀頼」「真田信繁(幸村)」や、「西郷隆盛」なども当てはまります。
この「新選組」は、個人ではなくグループであることも特徴です。
敗れ去る美学×仲間達との青春群像劇
これが「新選組」であり、その人気の秘密なのかも知れません。
今では大人気の「新選組」ですが、明治初期では旧幕府側であった新選組は明治政府に仇なす悪い組織というイメージだったと言います。
イメージの良し悪しが時代によって変わるというところも歴史の面白いところでもあります。そんな「新選組」について中田敦彦のYouTube大学で取り扱っていましたので感想含めてまとめていきたいと思います。
試衛館
時代は江戸末期…
「もう刀なんて必要ないのでは」と言われるほど長く続いた平和な日々が、徐々に慌ただしくなっていく中で、江戸新宿区市谷にある「試衛館」という剣術道場に「宮川勝五郎」という農民の男子がいました。
日々稽古に励む勝五郎でしたが、
ある日、勝五郎の家に泥棒が入り込みます。
夜中で家族は寝静まっていましたが、勝五郎と兄はその異変に気付き、撃退しようと考えます。
これから物色する状況である今はまだ警戒しているからと静かに待ち、物色を終えて家から出ていく気が緩んでいる瞬間を狙って泥棒たちを退治します。何人かは逃げて行きましたが、「深追いは禁物だ」と子供とは思えない冷静な判断をします。
そしてこのことが村中・道場の評判となります。
試衛館三代目師範代「近藤周助」に跡取りがいなかったこともあり、四代目として勝五郎を指名します。
そしてこの時、近藤家の養子として「近藤勇」という名前をもらうのです。
あ、この勝五郎が新選組局長!?
武士に憧れる農民の子「勝五郎」がその才能を見出され、「近藤勇」として試衛館を任されるようになると、彼のその人望や男気、剣の才能の元に数々の者たちが集います。
- 副長 土方歳三(鬼の副長)
- 副長 山南敬助(悩める幹部)
- 一番隊隊長 沖田総司(病弱な天才剣士)
- 二番隊隊長 永倉新八(近藤と揉めがち)
- 三番隊隊長 斎藤一(寡黙な仕事人)
新選組のストーリーは江戸にあるこの小さな道場から始まるのです。
他にも藤堂平助や井上源三郎なども試衛館出身だよ
この小さな道場にもう主役たちが揃っていたんだね
浪士組⇒壬生浪士組
あるとき、試衛館の面々は「浪士組」募集のことを知ります。
当時の将軍「徳川家茂」が京へ上洛する際の護衛兵を募集していたのでした。
「身分を問わず」という条件に参加者たちは喜びますが、見方を変えると「それほどまでに徳川家が衰退してきている」という意味でもありました。
ですが、近藤たちはこれをチャンスと捉え参加します。
将軍の護衛ができると意気込んで参加した近藤でしたが、急に朝廷の警護に鞍替えするという方針変更に困惑します。集まった浪士組たちも決断を迫られます。
- そのまま朝廷の警護でも良いと残る者
- それでは約束が違うと帰る者
そんな中、近藤は朝廷の警護はしないが、そのまま残って将軍の警護をするという新たな選択をします。
そこで出会うのが「芹沢鴨」であり、その後行動を共にすることになります。
この一見わがままにも見える近藤の決断ですが、その「幕府を守りたい」という気持ちと行動が、京都守護職「松平容保」の目に留まります。
当時の京都の治安が悪かったこともあり、京都での治安維持に活用したいと考えられたのです。
こうして松平藩預かりとなった近藤たちは「壬生浪士組」として近藤勇と芹沢鴨との2トップ体制となり、京都の治安を守るために奮闘していくのでした。
新選組
やがて壬生浪士組は「八月十八日の政変」での活躍をきっかけに朝廷より名前をもらい「新選組」と改めます。
あの有名な羽織もこの頃作られたと言われています。
- 羽織のベースは忠義で知られる赤穂浪士
- 色は切腹のときに使われる浅葱色
- そして「誠」は儒教や武士道の考え
つまりあの羽織は「俺たちは武士道(忠義)を重んじ、死ぬ覚悟は出来ている」という気持ちの表れなのです。
真田幸村の六文銭みたい
また新選組は「局中法度」という掟を作りました。
武士道に背くこと
局を脱するを許さず
勝手に金策を致すべからず
勝手に訴訟取り扱うべからず
私闘を許さず
これらを破った者は「切腹」という厳しい鉄の掟です。
「切腹」とは武士が行う名誉ある死に方であるとされ、武士の集まりではない新選組がこれを用いるということは
羽織に込められた意味も合わせて「自分たちは武士なのだ」という強い意志表明だったのです。
こうして新選組の組織作りが進む中で、もう一人の局長である「芹沢鴨」について素行の悪さが目立つようになってきます。
酒癖の悪い芹沢は以前より問題を起こしてきましたが、新選組という公認の組織になった今、これ以上のトラブルを嫌う近藤派の古参幹部たちによって暗殺されます。なんと新選組としての初仕事は芹沢暗殺だったのです。
池田屋事件
近藤体制となった新選組は京都治安維持の名目でどんどん不逞浪士を取り締まっていきます。
そんな中、捕まえた浪士の中から「ある事件の計画」を知ることになります。
それは
という過激な尊王攘夷派による恐ろしい計画でした。
そしてこの計画を阻止するのが有名な「池田屋事件」です。
どこかの宿に集まっているという情報を頼りに近藤チーム・土方チームの二手に分かれて京の町を捜索します。
発見したのは近藤チームです。池田屋で数時間に及ぶ大乱闘の末、テロ計画を阻止することに成功します。
近藤愛刀の「虎徹」が刃こぼれでギザギザになるくらい激しい戦いだったらしいよ
新選組はこの池田屋事件をきっかけに京の町にその名を轟かし、有名になっていきます。
入隊希望者も一気に増え組織が大きくなっていきますが、内部のゴタゴタが多くなってくるのもこの頃です。
隊の行く末を案じていた副長「山南敬助」が新規入隊者である伊藤甲子太郎のいきなりの「参謀」抜擢をきっかけとして隊を脱走。
その後捕まった山南は鉄の掟によって切腹します。
新選組は古参幹部であろうと掟に背けば罰するという厳しい姿勢を周りに見せつけることに成功しますが、
同時にその掟は試衛館からの友を一人失うという悲しい結果となってしまうのでした。
悲しい……
新選組は討幕派などの敵と戦うばかりではなく、こういった内部の揉め事も多いのです。そこが悲しいところであり目が離せないところでもあります。
薩長同盟と御陵衛士
この後、「薩長同盟」が成立し、時代は大きく変わっていきます。
それまで単独だった過激な攘夷派長州が倒幕という共通の目的のために薩摩と手を組んだことによって新選組にとっては敵が増えたことになります。
また、幕府との公武合体を目指していた穏健な孝明天皇の崩御によって新選組は後ろ盾を失います。
つまり敵が増えて見方が減るという新選組にとっては逆風の状況になっていくのです。
薩長同盟・坂本龍馬の活躍についてはこちら▼
そんな逆風の新選組に更に追い打ちをかけるように伊藤甲子太郎が動きます。
時代の流れは「佐幕」ではなく「倒幕」だと読んだ甲子太郎はこのまま新選組に居ても未来はないと思い、「御陵衛士」という朝廷を守るための組織を作ります。
自己都合ではなく、あくまで朝廷からの命であり正式な脱退ということを認めさせたうえで15人程引き連れていきます。その中には藤堂平助・斎藤一の姿もありました。
えー!?幹部も引き抜き?
斎藤!見損なったぞ!!
そんな精鋭を集めた伊藤甲子太郎率いる「御陵衛士」でしたが、朝廷側では佐幕派である新選組に在籍していたという事実もあり、あまり信用してもらえません。
その繋がりを絶つことを求められた伊藤甲子太郎はなんと近藤勇の暗殺を企てます。
ところが、それを陰から見ていた男がいました。
その男は新選組に戻り、暗殺計画を近藤本人に報告します。
その男とは……斎藤一でした。
斉藤は近藤の指示で御陵衛士に潜り込んでいた新選組のスパイだったのです。
うんうん……最初から僕は信じていたよ
……
こうして計画を事前に知った近藤は伊藤甲子太郎を誘い、その帰り道で暗殺。
集まってきた御陵衛士たちも切り伏せます。これが油小路事件と呼ばれ、近藤暗殺計画は未遂に終わるのでした。
大政奉還と王政復古の大号令
そんな中、時代は大きな転換期を迎えます。薩長同盟により、いよいよ不利な状況になってきた徳川幕府が「大政奉還」を行います。
これは政権を朝廷に返還し、徳川家も朝廷の下であるとして
「朝廷の敵である徳川幕府を倒す」という倒幕行為をさせないための徳川慶喜苦肉の大作戦でした。
徳川慶喜としては、朝廷政権にしたうえで徳川家はある程度の権力を維持しながら存続し、いずれはまたという野望もあったでしょう。
ところがこれに対して薩摩・長州が中心となり「王政復古の大号令」を出させます。
これは、名目だけでなく徳川の領地と役職を没収し、天皇のもとに新たな職を置いて有力な藩が共同で政治を行う形をとるという旧幕府に対しての強行策でした。
新選組どうなっちゃうの?
戊辰戦争
この王政復古の大号令を不服に感じた旧幕府軍(徳川)と新政府軍による戊辰戦争が始まります。
そして最初の戦いが「鳥羽伏見の戦い」です。
もちろん新選組も旧幕府軍側として参戦していく訳ですが、
- 近藤は何者かに狙撃され肩を負傷。
- 沖田総司は当時不治の病とされていた肺結核で戦線離脱。
近藤・沖田不在の中で鳥羽伏見の戦いに突入していくのですが、
旧幕府軍は新政府軍の最新式の武器に終始圧倒され、あっという間に決着がつきます。
徳川慶喜と松平容保も早々に江戸へ撤退する有り様でした。
なにより新選組が驚いたのは、真っ赤な旗に金の日の丸が描かれた「錦の御旗」が新政府軍によって掲げられたことです。
これは、朝廷を守る者が戦う時に与えられる旗であり、これを見た多くの隊士が心を折られました。
「逆賊?俺たちは何を守ろうとしてたんだ?」
鳥羽伏見で負けて江戸に戻った旧幕府軍は
- 新政府軍に恭順する意見と
- 徹底抗戦する意見
で対立します。
この頃、全権を任されていた恭順派の勝海舟は、新選組を「甲州勝沼の戦い」へ向かわせます。
これは交戦派である新選組を江戸から遠ざけたかったことも理由ですが、
ある程度大勢が決した戦場(死地)へ向かわせるということから「もうお前らはどうでもいい」という徳川家の感情も伺えます。
次の時代もなんとか生きたいと思っている徳川家
徳川幕府に命を賭けて戦う新選組
両者のギャップがここにあるのです。
甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と名を改めた新選組が着いた頃には甲州は板垣退助によって制圧された後でした。
城では新政府軍の大軍が最新式の銃を持ち待ち構えています。
圧倒的な不利な状況にボロボロになった新選組内で意見が分かれます。
このまま指示通りに戦うという近藤に対し、会津まで引いて立て直しが必要という永倉
そして言い争いの末に永倉は隊を離脱してしまうのでした。
その後、新政府軍に追われた新選組は下総の流山に陣を構えます。
敵に囲まれ死を覚悟した近藤でしたが、土方の懇願により偽名を使い捕虜となって生き永らえる作戦を実行します。その間に土方は勝海舟を通じて何とか助命してもらおうと思っていたのです。
「大久保大和」として捕まった近藤でしたが、近藤の顔を知っていた御陵衛士の生き残りによって新選組局長近藤勇であることが露見して処刑されてしまいます。
あれほど武士に憧れ、武士より武士らしかった男の最後が切腹ではなく斬首。
そしてその首は大悪党として晒し首になるのです。
そしてその2か月後、病床の沖田総司は近藤の死を知らず、その安否を心配しながら亡くなるのでした。
残った土方と斎藤は松平容保の会津藩(現在の福島県)に行きます。
そしてそこにも新政府軍の手は伸びてきており「会津戦争」が起こりますが、やはり新政府軍の力は圧倒的で会津は落城寸前。
北へ逃げて再起を図るという土方に対して、
会津藩と共に死ぬ覚悟の斎藤は残る決断をします。
あの寡黙な男が自分の意見を言うなんて…
ここでいよいよ試衛館の全員がバラバラになってしまいます。
たった一人になった土方は北へ向かい、そこで榎本武揚と出会います。その後、蝦夷(北海道)へ渡り、函館五稜郭に立て籠もることになりますが、その五稜郭の戦いで戦死します。
この土方歳三の死によって、新政府にとっての逆賊新選組は全滅ということになり、長かった旧幕府軍と新政府軍との戊辰戦争も終わったのでした
新選組その後
新選組は本当に全滅してしまったのか…
斎藤一
実は死ぬ覚悟で会津に残った斎藤一は生きていました。
会津戦争の後、斗南へ改易となった会津藩と共に行動します。その後上京して明治政府の警視庁に入り、政府側として西南戦争にも参加しています。
戊辰戦争では新選組を追い詰めていた官軍薩摩を今回は逆賊として藤田五郎と名前を変えた元新選組隊長を含んだ政府軍が追い詰めるという展開は歴史の皮肉とも言えます。
そして晩年は剣術の教員などをしていたと言います。
幕末・明治・大正と時代を駆け抜けた新選組三番隊隊長斎藤一は大正4年に亡くなります。享年72歳でした。
永倉新八
そしてもう一人生き残った者がいました。
それは、永倉新八です。
甲州勝沼の戦いで離脱した永倉は無事に落ち延び、その後北海道小樽で明治の世を生きていくことになります。
新選組の悪評を聞きながら老人になっていくのですが、ある時その悪評に我慢ができなくなったのか、もう大丈夫だと思ったのか、「自分は新選組の永倉新八である」として新聞に連載を始めます。
「新選組とは一体何だったのか」そんな連載内容にじわじわと世間での新選組人気が高まっていきます。
明治政府によって下げられた新選組の名誉を回復したのは
局長の近藤勇ではなく
最後まで戦った土方歳三でもなく
あの近藤局長と揉め事ばかりしていた永倉新八だったのです。
まとめ
新選組は国に反旗を翻そうとか潰そうとか悪いことを画策していた訳ではありません。
ある江戸という時代の中で、「侍とは主君に尽くして死ぬ」ということを徹底的に教え込まれ、その教えのど真ん中にいた彼らが、その侍道を忠実に守り抜いた結果、いつの間にか逆賊になっていたという話なのです。
彼らはあまりにも侍だったために大きな時代の変化に乗り移ることが出来なかった不器用な男たちだったと言えます。
今の時代においても、
その時まで正しかったことがいつの間にか時代が変わって「古い」「間違い」とされることは多々あります。
どちらが正しいのか……どちらが間違っているのか……
様々な価値観が揺らいでいる中で
- 今の価値観を守り通すのか
- それとも時代に合わせて乗り移っていくのか
新選組の物語とは、それを選ぶひとつの教科書になっているのかも知れません。
カッコイイ
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