千利休を知れば戦国時代の全てが分かる!?

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びんかん君

千利休?お茶の人でしょ?
もっと有名な武将のほうが良いなあ

どんかん先生

侮らないでね

あの織田信長、豊臣秀吉という二人の英雄に深く関わっていて日本の文化を作り上げたと言われるこの「千利休」という人物を知れば戦国時代が全て分かると言っても過言ではありません。
日本史上色々な偉人たちがいる中で深く考えれば考えるほど興味深いのがこの千利休なのです。
今回はそんな「千利休」について中田敦彦のYouTube大学で取り扱っていましたので感想含めて説明していきたいと思います。

今回は動画内での参考書籍がなかったので千利休に関しての個人的なおすすめ本を何冊か紹介します。

「利休にたずねよ」
山本兼一著
PHP文芸文庫

「利休入門」
木村宗慎著
新潮社

「へうげもの」全25巻
山田芳裕著
モーニング

目次

茶道とは

現代の私たちが想像できないほど「茶道」というものが大きな影響力を持ち、ものすごいカルチャーだった時代があります。そこにとんでもない大金が動き、ときには命が奪われる人が現れるほど強烈な文化でした。
そしてそれは天才によって人為的に作られたものだったのです。

そもそも茶道とは奈良時代~平安時代に「お茶」というものが中国から伝わったことから始まります。最澄と空海によって仏教と共に伝わったという説などもあります。

そして鎌倉時代にお茶を飲むということと、宗教が結びついて「禅」を広める手段として用いられるようになります。

室町時代に入ると村田珠光が「茶の湯」を作り上げました。それまでのただ健康のためにお茶を飲むということから、お茶を通して心も清めるセレモニー(儀式的なもの)として様々な流派として広まっていくのです。

  • 詫びさびを理念として形式ではなく心の問題を重視した村田珠光を祖とする奈良流
  • その奈良流の流れを組む武野紹鴎を祖とする堺流
  • 銀閣寺で有名な足利義政の書院造の茶室にした能阿弥を祖とする東山流

戦国時代になるとこの茶道を圧倒的な政治的影響力のあるカルチャーに押し上げる天才が現れます。それは…あの天下布武でお馴染みの「織田信長」です。
信長は鎌倉幕府がなぜ崩壊したのかを良く理解していました。元寇が防衛戦だったこともあり、家臣に土地を褒美として渡すことが出来ませんでした。つまり褒美が無いことで「御恩と奉公」が成り立たなかったのです。
そこで信長は土地以外の褒美として茶道を利用する「御茶湯御政道」という革新的な政策を打ち立てます。名物と言われる高価な茶器を買い占めて更に価値を高め部下への恩賞に使ったり、茶会を開くことを特権として限られた者にだけ与えました。
そしてそのことで茶道の先生に過ぎなかった一人の男がとてつもない力を持ち出していくのでした。

千利休の生涯

1522年、商人の支配する自治都市「堺」の魚問屋の子として「田中与四郎」は生まれました。

びんかん君

田中?誰だ?

どんかん先生

この田中与四郎が後の千利休だよ

田中与四郎は堺の禅宗の南宗寺で法名をもらい、以降「千宗易」と名乗ります。
千宗易は北向道陳という堺の医者に茶道を勧められ、東山流や武野紹鴎の堺流を学び始めます。禅の考えや詫びさび、お茶の飲み方など茶道の魅力に惹かれていった千宗易はやがて武野紹鴎の教えを組む者としてその後継者となっていったのです。
武野紹鴎が若くして没したこともあり、堺の町で「お茶と言えば千宗易」というくらい有名になっていたのでした。
時を同じくして織田信長が京へ上洛。その力を誇示し、堺の名物を強制収集するなど「御茶湯御政道」を推し進めていました。
茶道の知識がある人材をという目的で登用された千宗易は信長の茶会の茶頭(茶会を仕切り役)を任されます。茶会が当時の特権であったことで一大カルチャーのリーダーとして千宗易はその地位を高めていくのです。

どんかん先生

ちなみに秀吉は信長に茶会の許可をもらったことを泣いて喜んだらしいよ

びんかん君

よっぽど嬉しかったんだね

ところがそんな織田信長も1582年本能寺の変で没します。
その後を継いだ秀吉は「御茶湯御政道」も同じように進め、千宗易もそのまま秀吉の茶頭となります。
秀吉は天下取りが進むにつれて朝廷や官位を意識するようになります。禁中茶会もその一つで、その正親町天皇に献茶するときに与えられた居士号が「千利休」なのです。以後、利休は名実ともに天下一の茶の湯者となったのでした。

びんかん君

あの田中与四郎がずいぶん成り上がったねえ

木下藤吉郎⇒豊臣秀吉が歴史の表だとしたら
田中与四郎⇒千利休は裏の歴史と言われています。

この名前が変わりながら日本の頂点にまで上り詰めた二人の光と影は一心同体とも言えるほど一つの物語…。
黄金の秀吉と漆黒の利休。この二人が共に戦国の世を彩ったのです。

その後、禁中茶会での組み立て式の「黄金の茶室」や、大規模な野点(外で茶を点てる)「北野大茶会」など二人の天下は栄華を極めますが千利休は晩年、秀吉によって堺へ追放され、京都にて切腹を命じられてしまうのです。

びんかん君

え?なんで?

罪状は

  • 自身の茶器を高額で取引していた
  • 大徳寺の門上に利休の木造を置いたことが秀吉に対して失礼

とありますが、あまりにも言いがかりのような罪状です。
一説には

  • 「秀吉と茶道の考え方で対立したから」
  • 「秀吉の政策(唐入りなど)に口を出したから」
  • 「利休があまりに大きな権力を持ち過ぎたから」

など色々な説がありますが、これが何かを考えることが歴史の面白いところでもあります。

利休とはどんな人物だったのか

名作と野望

利休の名作として有名な2つが

  • 黒い器が至高であると言い出した黒楽焼
  • 武家と貴族の融合と言われる書院造の茶室ではなく二畳しかない待庵

中国からやってくる舶来の品を名物として崇めることが許せなかった利休は国産品を価値のあるものとして高値で評価・プロデュースしていきました。自らの考える美を国内で最高の価値にしてやろうという野望があったのです。

「四規七則」

あの織田信長や豊臣秀吉に重用されるほど機転が利き頭の良かった利休は「茶道とはおもてなし道」であるとして来客を感動させることで人の心を掴んでいきました。利休のおもてなしの心得として四規七則というものがあります。

四規とは「和敬清寂」(わけいせいじゃく)

和⇒お互いに仲良くすること
敬⇒お互いに敬い合うこと
清⇒心が清らかであること
寂⇒どんな時も動じない心のこと

七則とは「お客様をもてなす7つの心構え」
  • 茶は服の良きように点て
    (心を込める)
  • 炭は湯の沸くように置き
    (本質を見極める)
  • 冬は暖かく夏は涼しく
    (季節感を持つ)
  • 花は野にあるように入れ
    (命を尊ぶ)
  • 刻限は早めに
    (心にゆとりを持つ)
  • 降らずとも雨具の用意
    (やわらかい心を持つ)
  • 相客に心せよ
    (互いに尊重し合う)

ひとつひとつを見てみると何でもない普通のことかも知れませんが、それを「常に行えるように」というのが難しいのです。普段の心掛けが何より大事だということですね。

丿貫と山上宗二

利休の兄弟子である丿貫(へちかん)という男は禅の思想・詫びさびの心や四規七則の心得を大事にするという茶道であり、その人を感動させる実力は北野大茶会などで秀吉も認めるほどでした。士官を勧められますが、それを断り普通の村で質素に暮らすという現代で言うミニマリストに近いものでした。
もちろん利休も同じ思想や考えがありましたが、その茶道を広めるために地位や権力を利用していたという点では丿貫とは違っていたのです。

そしてもう一人。利休の弟子である山上宗二という男がいました。若い時から利休の教えを一身に受け一番弟子として利休の考えを忠実に守ってきましたが、その悪いものは悪いと言う素直さが仇となり秀吉の怒りを買うことで追放されます。その後転々として最終的に士官したのが小田原北条家ですが、豊臣家に与さない敵国大名として滅ぼされます。その際に山上宗二は捕まります。利休は何とか助けようとしますが結果的に助けることはできません。耳・鼻を削いで斬首という恐ろしい殺され方をします。この辺りは石田光成が大きくなり過ぎていた茶人の影響力を抑えたかったという説もあります。

  • 利休が本当に目指すべき理想の姿であった丿貫
  • 利休の教えをあまりにも信じすぎて逸れていった山上宗二
  • 大きくなり過ぎた利休の影響力を抑えたい石田光成
  • 利休の忠誠心を試すように無理難題を出す豊臣秀吉

ある時それらが弾けて最終的に利休の切腹へとなっていくのです。

辞世の句

利休の辞世の句は全て漢文で書かれています。
意味とすれば

「人生70年。えいやー!(掛け声)私が持つ宝剣を使い、祖仏とともにその生涯を終える。そして自らの命を天に放とう!」

びんかん君

雅なイメージと違って豪快!
ラオウの昇天みたい笑

どんかん先生

とても四規七則の人とは思えないね

この二面性こそが利休であり、辞世の句で強く現れているのが丿貫とは違う「欲」や「業」の部分とも言えます。

黒は黒でも何もかも混ざりこんだ闇のように輝く黒。それが利休の魅力なのかも知れません。

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